2005.08.18 Thursday
肺結核の子供
中村俊亮について 村野四郎(ユリイカS33.9)
この号に紹介した「悪い子」ほか数編の
詩をかいた中村俊亮君は、岩手県の岩手サ
ナトリウムにいる十七才の病少年である。
彼の作品をはじめて見たのは、ぼくが見て
いる岩手日報の投稿詩欄だったが、その時
異常なショックをうけた。この種の衝撃は、
ぼくの経験では、「詩学」の研究会作品の
中に、山本太郎君の「深夜の合唱」だった
か、「よいどれの唄」だったかを発見した
時以来のことである。何だか、ひどく悲し
い手で心臓をなでられたような気がした。
こんなに痛ましい美しさというものがある
だろうかあと思った。
だが、はじめのうちは字も読みづらく、
文章法も的確でなく、一個の文学作品とし
ては、一般には通用するものとは思えなか
つた。いわば文学の伝達性などを考えるま
えの、極めて個人的で星雲的な精神の告白
のようなものであった。それから約1年位
みてくるうちに、形式に或る自覚をもつよ
うになり、メタフォアも次第にはっきりと、
異様な機能を示しだした。
ここにのせた作品も、ぼくの手もとに送
られてきた最近の作品のうちの一部だが、
見られるようにそのスタイルは多分に超現
実主義的なところがある。しかし彼自身は
超現実派の手法などは意識していない。魂
が血の足跡をつけて勝手に散歩する。その
パターンを、先天的にするどい美の意識が
トリミングしてくる。それだから意識的に
連想を断絶するといたような、あの超現実
派の知性と感性との、いかがわしい確執は、
そこにはない。そういう点で非常に純粋で
自然な形をもっている。
内面的に見ると、少年期をむしばまれた
孤独な精神や肉体が、愛の成熟に対して、
いたく羞恥やあこがれ、或は遊戯する幼年
の魂への絶望的回顧、あるいは不幸にまつ
わる罪の意識などが主要な情緒的主題をつ
くつているようだが、それらの裏側を、い
ちめんにいろどつているのは、血への恐怖
と執着とである。
いいかえれば、彼のあらゆる作品が、血
の幻影に色どられているともいえる。彼は
夏を死んでゆくセミの体内にまで、涸れて
ゆく血を幻想するのである。それは異常な
血への執着だが、彼にとつては、血はただ
一つの「生」の証しであり、その赤の印象
は、むしばまれた生への本能的な恐怖の表
象でもある。
こうした生命との、せつぱつまつた対決
には、もはやどんな間接的な思考もはいり
こむ余地はないといつたふうである。この
きわめて直接的で、原色的な魂の告白が、
読者を心の深いところで純粋にゆり動かす
のではないかとおもわれる。
人生的体験をつんだり、詩的名声もかく
とくしたという一般詩人の作品と、この少
年の作品とをならべて、虚心たんかいに、
作品のもつ生命感をくらべて見ることは、
どんな批評よりも有効であるように思われ
る。果して、詩はいわゆる体験によつて作
られるのか。かえつて、或体験の毒が詩を
消滅させることの方がおおいのではなうか。
或は異常な才能は、ごく短い時間に、あら
ゆる経験を直感してしまうのであろうか、
などとさえ考えられてくる。
現代という特別な機構や条件が、この詩
人を小型なランボオにしているが、最近よ
こした手紙の中で、「僕も自分の明るい未
来のために、六月か九月ごろに肺切いたし、
悪いところをとるつもりです」と言つてき
た。ロマンの着物もくせてもらえない、素
裸のかなしい現代のランボオである。彼に
明るい未来を与えてやりたい。
ユリイカS33.9